昭和50年12月7日 御理解 第20節
この方が天地金の神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ疑うて聞かぬものは是非に及ばず可愛いものぢや又時を待っておかげを受けるがよし各自子を持って合点せよ親の言う事をきかぬ子が一番つまらぬ言う事を聞かぬ子は親も仕方があるまいが。
信心を頂く姿勢ね、信心を頂く姿勢を言うておられる、教えておられる。私はこれは信心のある者と無い者の相違というものでなくて、お道の信心を頂いておるものとして今日は頂いて頂きたい、ね。金光様の信心は頂いておるけれども、また毎日お参りはしておるけれども、親の言う子とを聞かぬ子が一番つまらんと言われるが、もう本当に一番つまらぬ信者になってはならないという事、神様がね言わばもうあの人ばかりはいくら言うて聞かせてもわからんと言うなら、寂しい悲しい思いをさせる様な信者であってはならないと、例えばなら、それをも少し絞って会楽の信者信奉者というてもよいです。此の方という事を大坪総一郎というてもよいです、親先生が日々信心の体験を頂いて行かれる、親神様からお知らせを頂いて、こういう信心をすれば私の様なものでもここまで助かっておるのだから、皆さんも助かれない筈はないと、私が助かっておる事を皆さんに聞いて頂くのですから、例えば今日の御理解は本当に有り難かった素晴らしかったと、例えば私が思うても皆さんが思うてもです、ならこれは私の子供がです、子供が例えば御理解を御教えを頂かない、そういう風に頂きますと、本当にこれを引っ張って聞かす訳には行かないしサ、私の子供でも仕方があるまいがという事になるのです。だからこの仕方があるまいがという事はもう親の悲しい表現だと思うです、云う事を聞かぬ子は親でも仕方がないという、同時にも少しそれを云うと、云う事を聞かぬ子はというのはというのはというのはどういう事かというと、云う事を聞いて、なら聞いただけではいかん、居眠り半分ぢやいかん、ならそれを聞いたという事になる、ならああ今日の御理解は有り難かったとわかってたとしても、聞いただけぢやいかん、それを守って身につけて行かねばまた結局又親も仕方があるまいがという事になる。
この方が天地金の神よりおかげを受けた事を話にして聞かすのぞ、だからこれは信心のあるものないもの、信心の無い人にはいくらいうて聞かせたっちゃ、神様がござるやらご座らんやら、私だんそげなおかげを頂かんと、言う事を聞かぬ子は本当につまらんけど、それをずっと絞ってね、なら金光教の信者、信者、氏子と教祖はおっしゃっておられますね、信者氏子、金光様の信心をしよるから信者氏子なんです、金光大神の子なのです、なら沢山の信者信奉者が居るけれどもです、なら御理解み教えをね、なら金光様の信者の中にも、なら神様をがっかりさせよる人が沢山あるということ。
お話を聞かん、私は本当に不思議に思う事は、会楽に参って御理解を頂かんということは、もうデパ一トに買い物に言ってから買い物して帰らんのと同じです、もうどんなに時間がかかってもどうであっても、忙しかってもです、一言なっと頂いて帰らねばね、それこそ神様を寂しい思いをさせる、そして例えばその御理解の中から、今日一日なら今日一日の働く本、本根、いうなら原動力をです、それから頂いて、生き生きとした、信心生活に入って行く元になるのです、み教えというものは必ず全部わからんならんという事はない、肝心要のところがわからんならんという事はない、そうだとこう頂き留めたとそうで良いのだ、一日のはたらく迫力が違って来るです、今朝頂いたここんところが自分には欠けておった、よしここに一つ焦点をおいてということです。
昨日午後の奉仕の時でしたが、皆さんそこで御理解を頂いとられました。その時に見知らぬ方がお参りして来ました、そこで私は別にどこから決して何処から参ったとか、どこの教会からですかとは聞かないのです、ですけど何処かのやっぱり信者さんらしいのです、もういわれることその態度がもう金光様の御信者です。そしておかげの泉を拝読さして頂いとりますが、大変なおかげを頂いとりますというお礼参拝であった、それで私は御神米を下げさせて頂く時に、昨日頂いた御理解の中から『愚痴れば運命が悪くなる』という事を書かせて頂いて下げた、そして「愚痴れば運命が悪くなると言われるのですから、その愚痴らんという事でなくて喜びということになると、喜びを以て頂くという事になるとその反対ですから、運命が有り難いという方えなる、なりますね」ということを一言添えさして頂いて、お取り次ぎさせて頂いたら、此処でもう大変感動されて喜ばれるのです。と言うのはね、そこの障子を開けて入った途端に、一番口に耳に入ったのが丁度そこのところだったらしいです。
わ一、本当に会楽の御理解は素晴らしいかなと、愚痴れば運命が悪くなると、ああ今日頂くのは此処だなと思うておるところえ、愚痴の反対の事すりや運命が良い事になるという御理解を頂いたから、こりやそれが大変に有り難かったというわけです、もうその全部聞かんでも自分がお参りし合わせたときに丁度そこに、御理解があっておるその御理解の中から一言でも頂いたら、感動が湧く程に有り難いもんです、その湧く感動をもって御用に向かうのですから、おかげを頂かん筈がなかです、そしてならこうやって御理解を頂き乍らです、ああここだとか感動も湧かない時には、もう一遍時間を惜しまずに頂き直すことです。
ゆうべは企画の方たちが、私が丁度夜の最後のお礼に出て、参りましたらもう十二時あったでしよう、丁度今終わって今帰ったとこですというて、秋永先生と文雄先生が、食堂へ来ておる時でしたからお礼を済まして三人で、丁度一時半までお話させて頂いた、もう一生懸命にそれこそテ一プにども取っときたい程のお話を三人でさせて頂いたんです、もう一時半になるから暫くでも寝もうかと言うて寝させて頂いて、秋永先生は寝まれる文男先生は私のところに来て、丁度一時間足を揉んでくれました、その一時間足を揉んで貰う間も二人で一生懸命に話した、寝ながらそして文男さんが足を揉み止めた時が丁度二時半でございました、だから暫くでも寝ませて頂きなさいというて寝む私も寝ませて頂いた。三時十五分にベルがなります、ですからああもう三じ十五分だと思うて起きろうと思うたらまたうとうととしとるわけです、そしたら御心眼ともお夢ともつきませんけれども、私が寝んどるこう「斜め」に見えるところにいつも掛かってないんです、四角い時計が、あんな「お広前の時計を指して」時計が掛っとるんです。その時計の中が水槽になっておって鯉がこう泳いどるところを頂いたんです。鯉が時計の中で、寝とらんつもりでも眠とったとみえて、すぐまあ出て参りましたけれども、その事から私は感じたんですけれどもね、時は金なりと申しますね、私はそのお知らせを頂いて、ははあ時は徳なりと思はして貰うんです、鯉のお知らせは御神徳のお知らせです。時計の中という事は時と思いましたから時は徳なりであります、というてならね、時そのものがお金という意味ぢゃないでしよう、時は金なりといってもその時がそのまま金ぢゃないです。一生懸命の時、時間を惜しんで働く人が五時間働く時には、六時間働く、だから時は金なりであります様にです、自分の心と言うものが、神様え向かう時間を惜しんで、いうならば神様得、私は今日は本当に時は徳なりと思はして貰うてお互いどの位、徳を無駄にしておるかわからないと思います。時間そのものが徳になるのぢゃないですよ、自分の心を神様にむける時間が大きければ大きいだけ、お徳になるのです。してみると私共はです、なら昨日二時半までも一生懸命にお話をしたことはそのまま、徳になっとる筈です、五時間より六時間、六時間より七時間、神様え打ち向かう時間をです惜しんではならない、今申します様に、御理解が一遍でわからなかったらもう一遍、とにかくじかんをおしんぢゃならんです、こころを神に向けての事ですから、それは決してマイナスにはならない。どんなに例えば忙しいというてもです、それこそ一言出も自分の心に残る様なものを頂かなければです、私はそういう頂き方が、神様の言う事を聞くことになり、親の言う事を聞くことになりそういう行き方が素直な信心だと思うです、親の言う事を聞かぬ子が一番つまらんということは本当に子供が素直にないということです。なら一番つまるのはどういう事かというと親の言う事を聞いてくれる子が一番有り難いという子とになるでしよう。親のいう子とを聞くということは唯、この耳出聞くということだけではなくて、聞いて自分の心の中にです、それが血肉になる様な頂き方、それが生活の面に表されるということ、だから本当の信心生活というものはです、四六時中が神様に向かっておる、私は思はして貰うんです、例えばお商売をさせて頂いておると、その時間でもやはり神様に打ち向かうテオラネバイケンデス。ですがならお客さんに嘘を言うたり、お客さんに十銭のものは十一銭で売るという子とは出来はしませんね。
そういう行き方だったらもうあなたは、神に向かうことにはならんのです、お客さんを実意丁寧に真心込めて、十せんのものは八銭で商いさせて頂いておるという、商いであって初めて、神の言うことを聞いておるであり、いうならば商いをしておる時間そのものが神に打ち向かうておる子とになるのですから、時は徳なりということになるのです。金光様、金光様と唱えておれば良いという事ぢゃないです。
事務を執っておってもそうです、お百姓しとってもそうです、心を神様え向けてのそれであって初めて、時間を無駄にしない、神様に向けておる事になりますから、それが全部神様に向けておるという事になるのです。時は金なりではなくて、いうならば私共は時は徳なりと頂かなければいけません。
信心ぢゃない心の中で、例えば一日を過ごすなんてこんな勿体ない事はない、何にんなっとらんです。
例えばなら旅行するとか一番つまらん、けど信心でそれを頂く、私は皆さんが何処どこ温泉にゆきますという時は信心実習ばいと必ず私は申します。先日から久留米の稲垣さんが結婚記念日に旅行しようと言われる、お金も沢山掛かるから勿体ないけど、まあ信心のない主人がいう事だから、というてお取り次ぎをなさった。広島へ行くというて、それで私は、信心実習ばいというて、広島に旅行さして頂くのですよと、もう帰って来て、もう先生それこそいたれり尽くせりの神様のおかげを頂いて、もう万事万端にお都合お繰り合わせ頂いて、信心の素晴らしさ、本当に親先生にお祈りを頂いておるという事でなくて、信心実習をしておるから心をどんな場合でも、そういうおかげを頂くのである。だからね、いうならば、旅行しながら温泉にひたりながらお徳を受けられる道なのです、金光教の信心は。そうでしょうが、時は徳なりです。
だから金光様の信心しよる者は温泉にも行かれん、旅行にも行かれんという事では決してないです。だから心にひっかかる様なことはこんな無駄な事はないですね。そりゃ人間にはやっぱり一服がいります。次ぎの働く云わば原動力にもなります、けど一服することも信心なのですね。いうなら寝とる間も信心なのです。私は寝ませて頂く時に、それを祈らせて頂きます、だから雑夢なんかどうぞ見らんように、雑夢を頂くと体が疲れるということ、だから頂くなら御神夢です、をどうぞ頂かして下さいというて寝むから、翌日の御理解に御神夢が出るのです、寝とる間も信心に心を向けておる。
そういう私は無駄のない、そつのない、人が五時間働くときに、自分は六時間働くときにです、時は金なりであります様に、いうならば時は徳なりと思うて心を向けなければいけません。
今日朝り御祈念中に、頂いた事なんですけど、お食事を済ました後に、お魚や何か奇麗に っとる後をお酒をかけて、お酒でゆすぐ様にして、こうやって頂いているところを頂きました、どういう事と思いますか。皆さんお食事をする解きには、三度三度のお食事が、まあ私共は二度二度ですが、二度なら二度のお食事がです、拍手して頂きますと云うて頂くでしょう、終わったら御馳走でしたとお礼を云うでしょう。こういう一日でなからなければいけんのです。朝目が覚めたたら今日一日をです頂きますという心で頂かにゃいけんのです、そしてお粗末がない様に、御無礼がない様に、いうなればその頂いた、魚の骨でもゆすいで頂く様にお酒でかけとると云うのは、有り難き勿体なきです。無駄のない様な頂き方をするという事です。そして一日が終わったら今日もおかげを頂きましたと、そしてごちそう様でしたと云う様にお礼がいえれる信心一日でなからねばいけないと云う事です。皆さんこのお食事をすることのことをそのままね、一日に当てはめたら良いです。そこに今朝からお知らせを頂き増す。時は徳なりという事が具体的にわかるでしょう。
そういう頂き方なんです、皆さん必ず云うとる、拍手して頂きますと済んだらおごちそうさんと、その一日がそうでなからにやいかんです。そりや一日の中に苦い思いをすることがある、暗い思いをすることがあるけれど、それが自分の身につく栄養であると思うたら、頂かにやおれんのです。それが徳になると思うたら、粗末には出来んのです。それこそ有り難い勿体ないで、濯いで頂く様にしたら、ごちそうさま。愈々一日の信心生活がそのまま血に肉になる事が、一日の信心生活がそのまま徳になると云う事が云えますが、今云う私が、反対の頂き方をしたならば、徳にも何にもならんと云うことです。時は流れて、無駄な時が流れるのです。不平をいひ不足を云う、これは甘いの辛いのとことごとにです云う様なことでは、愈々以て神様に相済まんという事になるのです。それはそのまま云うことを聞かん行き方、そのままと云う事になります。神の云う事を聞かん子は、親でも仕方があるまいが、云うことを聞かん子が、一番つまらんと云う子が、一番つまらん信者になり果てなれりやならんのです。
今日は私は、このみ教えは、まあ信心のある者とない者を区別されて、御信心しなさいというてもせんという、信心せろと云うてもせぬという事を、ここでは云われたであらうと云う事でも、私は金光教という信心の中での、なら金光大神を親と思うておりましても、金光大神の云う事を聞かぬ子が一番つまらんという様に聞いて頂いたんです。それをもちっと締めると会楽教会に御神縁を頂きながら、この方大坪総一郎が、日々の信心体験を又は神様に頂いたお知らせを皆さんに聞いて頂くけど、沢山こうやってお話は聞いておるけど、唯聞いておるだけでそれを守らうとしないなら、一番つまらぬ屑の信者という事になります。
折角お参りさせて頂いて、御理解も頂かんでけそけそ帰ろうなんて、もうこげな勿体ない話はないです。それこそ時は徳なりですから、忙しかったってその時間に打ち込むよりか、神様え打ち向かう時間を頂いた方が本当なんです。だからここに参ったら落ち着きなさい、ばたばたしなさんな、と云う事にもなるのです。時は金なりでなくて、時は徳なり、なら徳を頂くためには、なら時を本当にはじめて、思える様なおかげを頂くためには、それだけの精進、時そのものが金ではない、時そのものが徳ではない、その徳が儲かる様な働きをするから時は金なりです。徳はいうなら徳なり、お徳を受ける様な行き方から時そのものが一生懸命信心話をする、共励をする、時間が一時担っても、二時になってもそして頂くというのであるから誰でも働いておるのですから、これをご覧になる親神様がお喜び下さらん筈がないです。夕べは一時間が寝とらんけれども、今日は眠してこたえんという事は絶対ないです、徳を受けるです。
心を神様に向けて、然も時間を惜しんで、人よりも一倍精進さして貰うところに誰よりも沢山な、徳を受けるという事になります。そういうお徳を受けて初めて、この方が天地金の神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ、それを頂くという事になる。それを金光大神が喜んで下さらん筈がない、神様が喜んで下さらない筈がない。それを聞かん子が一番つまらんと、おおせられるのですから、それを愈々聞く頂く、姿勢をつくって、今日私が朝から頂いた、時計の中に鯉が泳いでおるお知らせを頂いて、あこれは時は徳なりという事だと悟らして貰うた、お食事の後のおさいを、魚の骨までお酒で濯ぎながら、頂いておるお知らせを頂いて、ああこういうお食事の頂き方が、いわば本当にままになるおかげの頂けれる、血肉になる頂き方だと思う様に、だからそれを信心生活の上にあてはめたら、朝目がさめたら今日一日おかげを頂きますと、どんなものでも神様が出して下さるものならば、それを血に肉に
せずにはおかんという頂き方、頂きますという事になって、初めて夜寝まして頂く時に御神前に出て、有り難うございますと、勿体ない今日も御馳走様でしたと、云えれる様な日々を過ごさして頂きたいですね。どうぞ。